須恵器を焼く

寒風須恵器プロジェクトは2016年に寒風作家協議会の皆さんへのアンケートから、須恵器プロジェクトに「参加」としてくださった作家さんたちと取り組みを始めました。今年度で3年目となります。
寒風産須恵器について焼成方法の教科書は無く、当時の寒風産須恵器に仕上げるべく試行錯誤を繰り返してきました。頭でわかっていることを具体化してみると、少しずつ新たに見えてくるものがあり、結果を次の判断につなげてきました。土、燃料、焼成方法、還元方法、冷却方法・・・やきものの奥の深さを感じることに。
 

今回はこれまでの中で一番近づけたように思います。窯の形状が当時のものと違う中で、当時の窯環境に近づける焚き方を考え、当時の陶工が置かれた状況を想像して取り組みました。
意見を出し合い、判断を共有し、作業に取り組んだ回でした。
  

「これまでで一番面白かった」の声もあり、個人の作家活動にはない面白みを感じることが出来た回になりました。
奈良文化財研究所の皆さんからの助言も我々のモチベーションを維持してくれています。
須恵器を焼成するにあたり窯跡研究会の森内秀造さんとのご縁から始まり、奈良文化財研究所の皆さんとのご縁へつながりました。
 
寒風ボランティア協議会の皆さんの補助もあり、無事窯出しを終えることが出来ました。
次の課題が見えたことから、今回得られたものはとても大きいと感じています。
これはやめられない・・ですね。
関係者のみなさま、大変お世話になりました!

須恵器をつくる

「須恵器制作・焼成プロジェクト」は取り組みを始めて今年度で3回目。作品を制作し焼成してみると、そのたび寒風古窯跡から出てきた須恵器との違いを確認することになります。制作工程、焼成方法などを推測し挑戦するのですが、結果少し違う様子が見えてくるのです。

1400年前の先人が残した教科書は、地面から出てくる破片しかありませんので、そこからどれだけ読み解くことが出来るか、回を重ねながら試みています。
そんな中、古代の都奈良で日々調査、研究を重ねていらっしゃる奈良文化財研究所の皆さんが2018年10月、寒風陶芸会館へお越しくださいました。沢山の遺物を調査してこられた方々の推定した製作方法を実践してみることで昔の陶工がどのような道具を使い、どのような制作方法で形にしていたのか、思い込んで疑わなかった作業をもう一度考えることに。文字の無い教科書を解説していただくことで、ぐぐっ!と昔の陶工の作業イメージが浮かんできます。その様子を ■なぶんけんブログ「フタの裏には何がある?」  ■寄稿「古代備前産須恵器~須恵器づくりが結ぶ古代と現代~」でご紹介くださっています。

2019年1月22日から窯に火が入り須恵器の焼成が始まります。過去2回の焼成結果から得られたことを材料に、作家の皆さんと試みを行ってみようと思います。
三度目の正直となりますか。

寄稿 「古代の備前産須恵器 〜須恵器作りが結ぶ古代と現代〜」

須恵器プロジェクトに取り組み始めてご縁をいただき、今年10月末に奈良文化財研究所の皆さんがご来館下さった様子について、寄稿くださいましたのでご紹介します。(三浦)


古代の備前産須恵器
〜須恵器作りが結ぶ古代と現代〜

独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所 都城発掘調査部 考古第二研究室
主任研究員 神 野  恵

 

古代の須恵器研究者が寒風窯に通う理由

奈良文化財研究所は、奈良の藤原京や平城京をフィールドに、古代の都の発掘調査をおこなっています。私たちは日々、ここから出土した土器を研究しています。こんな私たちが最近、よく寒風窯の須恵器の調査に来させてもらっています。ここで何をしているのだろう?とお思いになっている方もいらっしゃるかもしれません。私たちの活動内容について、お話ししてみようと思います。少し、長くなりますが、ご興味お持ちの方は、最後までお付き合いください。

飛鳥・奈良時代とは、律令制度を国家の骨組みとした中央集権的な時代でした。地方は律令の規定に従い、様々な税金を都に納めなければなりません。窯で焼かれた「須恵器」も「調」という税として都に運ばれました。調納国といって、須恵器を「調」として納めるべきと規定されていたのは、摂津・和泉・近江・美濃・播磨・備前・讃岐・筑前の8カ国。

古代の寒風窯で発掘された須恵器と、よく似たものが藤原京などで出土していますから、ここで焼かれた須恵器のなかには、備前国からの調として都へ運ばれたものもあったでしょう。

古代の「備前焼」は白い器で「美濃焼」と酷似

この古代の須恵器作りが、現代の備前焼のルーツと言えるわけですが、古代の「備前焼」は、現代の備前焼とは全くイメージが違います。古代の須恵器は、白っぽい色で、薄緑色の自然釉がかかるものが多く、現代の赤褐色の備前焼とはずいぶんイメージが違います。

そもそも、古代の須恵器は酸素が少ない状態で焼成しますので、鉄分が還元した青灰色を呈するものが一般的です。しかし、なぜか備前国と美濃国の須恵器には、白っぽいものが多いのです。なんとか備前と美濃の須恵器を見分けたい!私たちが寒風窯で調査を繰り返す大きな理由の一つです。

備前と美濃では距離も離れているため、本当に作り方や器形から区別がつかないのでしょうか?生産地ごとに違う器を作っていたのでは、都に集まる器は、バラバラになってしまいますよね?税として納められるような須恵器は、同じような形、大きさを目指して作られています。おそらく、都から規格についての注文があったのでしょう。規格に沿った器は、特に高い作陶技術を要するものではなく、むしろ大量生産に向いたシンプルなものが多いですから、生産地での技術の差が出にくく、区別が難しいのです。

古代の須恵器製作技術

私たちは日々、都に運ばれた須恵器を観察して、どのように作ったのか、痕跡から研究を重ねてきました。しかし、自分で作る技術力は素人同然です。自分たちが推定した方法で、作陶技術を持った陶匠(すえたくみ)が須恵器を作ったら、出土品と同じような痕跡が残るのでしょうか?

寒風陶芸会館には、現代の備前焼の作家としてご活躍の陶匠さんがたくさんいらっしゃいます。私たちが須恵器のなかでも一番難しいと思っていた蹄脚円面硯を、本物そっくりに作る技術力の高さに驚きました。この作家さん達なら、私たちが見たい方法で須恵器を作ることができるに違いないと直感しました。

古代の須恵器を作ってみせてもらえませんか?

2018年10月、平城京から出土した須恵器を持って、寒風陶芸会館を訪れました。このような器を作ってみせてもらえませんか?末廣さん、三浦さんら、作家さん達が、こころよくチャレンジしてくれることになりました。

日本の古代の須恵器作りは、ほとんどが右回転の手まわし轆轤で作られています。私たちが須恵器杯Hと呼ぶ器は、寒風窯でもたくさん焼かれた器です。

この器を最後にどうやって切り離していたのか?考古学的には議論がありますと言っている横で、末廣さんがヘラを入れて切り離すと、古代の器そっくりの底部が目の前に出現しました。研究者一同が「うわ〜っ」と唸った瞬間です。

須恵器蓋のつまみは、「粘土の塊を押しつぶして広げていくだけで・・」と尾野さんが言い終わる前に、末廣さんは頷きました。蓋のつまみは、現代でも同じ方法で作るのだそうです。

壺瓶は粘土で風船のように膨らませて…

古代にはさまざまな形の壺や瓶が須恵器として作られていました。フラスコ形のように丸いものや、角ばった肩を持つものもあります。このような器は頸の 付け根あたりに粘土を貼り付けたような痕跡をもつものがあります。

この作り方を、奈文研の尾野さんが解説します。「まず、球形の体部を轆轤で引いてもらって、上を粘土板で塞いで風船のようにするんです。それをグッと上から潰すと、壺の体部の形になりますから…」。聞いている作家さんたちは半信半疑でしたが、作家の三浦さんが尾野さんの言う通りに轆轤を引いてくれました。

あとは、半乾燥させて、頸部をつける部分に孔を開け、粘土を足して頸部を引きます。これまで半信半疑だった作家さんたちも興味津々です。末廣さんが頸をつける部分に孔をあけて、粘土を積み足して轆轤で引くと、古代の壺にそっくりの壺ができました。

「こうやって作った壺の中身が見たいですね」私たちは、いつも割れた破片ばかりを目にしていますから、本当に風船技法で作ったと私たちが考えている破片と同じような痕跡を持つのか?せっかく、古代の壺そっくりに作っていただいた壺をカットして頂きました。すると、発掘調査で出土する割れた壺にそっくりの痕跡を確認することができました。

古代の須恵器づくりは、技術だけでなく貴重な研究素材を提供

私たちが研究している古代の須恵器には、食器や貯蔵具だけでなく、調理具も含まれています。私たちの研究チームのメンバーである森川さんは、鉢Fの用途について研究しています。鉢Fは漏斗形のボディに、厚い円形の底部をつけたものです。

この器形の鉢は、こね鉢やすり鉢などのように使われたと考えられており、出土品の中には、使用によって器表面がすり減っているものがあります。森川さんは、実際にどのように使用すると、どのようにすり減るのか?須恵器製の鉢Fでつぶしたり、擂った食品や調味料は、どのような味がするのか?など、製作実験に使える陶製の鉢を探していました。

寒風陶芸会館でボランティアをされている妹尾さんと中村さんが、この研究に協力をしてくれました。事前に出土品の図面をお送りしたところ、出土品と同じような鉢Fを作ってくれていたのです。鉢の底部は分厚いためでしょうか、蓮花状に穴が開けられているものが多いので、最後の穴あけの仕上げを森川さんに残しておいてくれました。この立派な復元鉢Fが、森川さんの古代の調理具研究を進める一助となるのは間違いありません。

古代と現代のコラボレーション

飛鳥・奈良時代の須恵器作りの職人は、おそらく、藤原京や平城京から運ばれたモデルとなる須恵器を見せられ、これと同じようなものを作りなさいと言われたのでしょう。あるいは、都の役人が、いろいろ注文をつけたかもしれません。各地方の須恵器窯の陶工たちは、古墳時代からもっと複雑な須恵器を作っていますから、求められた器を製作するだけの技術力を十分に持っていたのでしょう。

現代の寒風陶芸館の作家さん達は、古代の都から来た私たちが、いろいろ注文をつけたにも関わらず、ほぼ同じような産品を忠実に作ってくれました。つまり、古代の陶工に勝るとも劣らない技術力を持っていらっしゃることは明らかです。私たちが理屈で考えた技法で作ることができるのか?この検証に必要なのは、「勝るとも劣らない技術力」に他なりません。この古代の須恵器作りへのチャレンジが、発掘調査では入手できない貴重なデータを私たちに与えてくれました。

今後も、たくさんの陶芸好きの人、古代史好きの人に、ワクワクしてもらえるようなコラボレーションができれば嬉しいですね。私たちの研究に、今後もご協力のほど、よろしくお願いします!

寒風円面硯を武田双雲先生へ

とっても素敵な先生でした。

我々が取り組んでいる須恵器の再現プロジェクト。
再現した須恵器の円面硯をお試しいただき、ご意見を頂戴できれば・・・、との要望を快く汲んでいただき実現。

   
瀬戸内市長及び公益財団法人寒風陶芸の里代表理事 武久顕也より寒風円面硯の贈呈。
早速墨を擦り筆を運び、感じることを言葉にしてくださいました。
「表面の質感や墨を擦る音から、荒くワイルドな印象だったけれど、実際文字を書いてみると、細かく繊細に墨が擦れていますね。」と。それを分かりやすく伝えられるように、にじみが強く出る紙を選んで、墨の濃度も考えてくださっていました。
紙の中の墨の映りは3D、あらためて書の奥深さを感じ、心が動きました。

寒風古窯跡群から出土している須恵器の円面硯について。
円面硯は飛鳥時代に高級官僚のみが使用したとされる文房具の一つであり、須恵器生産地である寒風古窯跡群から数点の破片しか出土していません。現在、墨を擦る時に使用する硯のほとんどは石で作られていますが、漢字が中国から日本へ伝わり硯が導入されたのは古代(7世紀前半ごろ)の飛鳥時代からで、平安時代中期ごろまでは墨を擦ることに耐えうる硬さを持つ須恵質の焼き物による硯(陶硯)が使用されていました。

現在、文書を作成するには文字を「書く」ことからパソコン等で文字を「打つ」行為に代わってきましたが、簡略化される行為は感覚を退化させてしまいそうな気がします。過去が古いという定義は時間の経過という意味であって、実は新しくもあるような、そんな気がします。墨を擦って文字を書くということは、「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」味覚を抜いて「心覚」等、多くの感覚を使い新しい何かに気づく感覚を育てるように思います。忙しい時代だからこそ、大事にしたいことの一つだと感じました。

武田双雲
先生、貴重なお時間を頂戴しまして、大変ありがとうございました。なんと武田双雲公式ブログにも書いてくださっています。
私たちの住む瀬戸内市の和菓子屋「岡山夢菓匠 敷島堂」さんの社名を書かれていらっしゃることから、ご縁をいただく事が出来ました。関係者の皆様ありがとうございました。

須恵器焼成中

順調に須恵器焼成中。

1400年前当時の窯は、地下深いところにある完全地下式の穴窯(傾斜地に横穴を掘り進めた窯)でした。
窯の上部がアーチ状ではなく、傾斜地の地形そのままだったと思います。
冬場、なだらかな傾斜面はきっとぬくぬくしていたのではないでしょうか。

当時の人たちはどんな風に焚いていたのだろうか、どんな風に焚き手さんは交代していたのだろう。
時計は無かったでしょうから、「日が昇ってきたらぼちぼち交代ね。」「太陽があそこに来たから交代ね。」なんて焚いていたのかもしれない。
夜当番は月明かりと、窯の火の明かりで焚いていたのだろうか、かがり火も焚いていたのかもしれない。
もしかしたら冬場の窯焚きは地面があったかくなるから、子供、家族、集落の人もみんな集まって傾斜地で寝ていたかもしれない。
なんていろいろ想像してしまいます。

寒風古窯跡群から出土した1400年前の須恵器の破片は「物」ですが、当時それを作った人たちがここに居て、その家族があって、集落があって、須恵器を必要とする社会があったのです。
火を見ながら、同じように1400年前に火を見て焚いていた人たちの平和な暮らしを想像してしまいます。

須恵器焼成窯の焼成

近くの池も凍ったまま、寒い日が続いています。
こつこつと作品を窯詰めし、昨年に続き今年も須恵器焼成の窯に火が入りました。
窯詰めを手伝ってくれたSさん、Aさんありがとうございました。
 

1400年前は棚板などありませんでしたから、地面にそのまま作品を置くような形で窯詰めしていたと思います。
今回は細かい作品など様々な作品があり、少し焼成リスクを避けるために棚組をしての窯詰め、古代に習いつつ文明の利器を使用。
 
 

昨年11月に行った円面硯も入り、須恵器に仕上がるのを待ちます。
窯場は24時間営業中、お時間のある方は覗いてくださいね。

窯跡研究会の皆様ご来館

昨年須恵器窯と須恵器の焼成について講演いただいた森内さんのご縁で、窯跡研究会の皆さんが寒風に来て下さいました。窯跡研究会第16回研究会「岡山県備前市佐山東山窯にかかる 須恵器生産の大型化をめぐる地域事例報告および備前焼の窯構造」ということで大学や専門機関の方、学芸員の方から学生まで、地域も年齢も幅広いメンバーの皆さんが岡山に集合。
草が生い茂る大草原の寒風もなんのその、草を分け入って寒風古窯跡を歩き、窯跡や灰原にある陶片を確認されていました。
寒風窯産の鴟尾について大脇潔氏のお話も大変興味深かったです。

次はメインの岡山理科大学が発掘調査をしている「備前市佐山東山窯跡」の現地説明会へ。
「佐山東山窯跡」は奈良時代(8世紀後半)に須恵器が焼かれていた窯で、全長16メートルに及ぶ国内最大級の須恵器窯だそうです。「寒風古窯跡」は7世紀初頭から8世紀初頭の飛鳥時代を中心とした約100年間須恵器を焼いていました。寒風は遺物から推測するに官窯の要素が大きいといわれますが、「佐山古窯跡」からも文字資料や硯などが出土しており、官窯の可能性が推測されるとのこと。残ったものから当時を想像する作業は沢山の経験や知識から事実を推測するわけですから、感覚的ではないイマジネーションの世界。寒風古窯跡を発掘調査した在野の考古学者・時實黙水さんも色々なイマジネーションをはたらかせ調査されていたのかもしれません。
窯跡研究会の皆様、ご来館いただきありがとうございました。
是非またいらしてください!

黙水さんまつり2017

牛窓、長浜が誇る在野の考古学者・時實黙水さんは60年間コツコツと史跡の発掘調査を行い、戦後の考古学者の中でも一目置かれた存在でした。寒風古窯跡群が国の史跡に指定された背景には、黙水さんの孤独で地道な努力と内に秘めた情熱があったのです。

本日、寒風ボランティア協議会主催の「黙水さんまつり」が開催され、講演会「師楽式土器について」講師:間壁葭子氏(神戸大学名誉教授・元倉敷考古館学芸員)にはたくさんの方々に参加いただきました。
製塩土器の名称として「師楽式土器」というものがあります。先生が学生時代に調査し卒論のテーマにした思い出の土器について沢山お話しいただきました。牛窓には「師楽」という地名があり、その地名が名称として付けられているのですから牛窓のこの辺りで盛んに塩が作られていたことがうかがえます。参加いただいた皆さんは興味深くお話を聞かれていました。
師楽式土器に付いているたたきの文様は外側にありますが、寒風の須恵器についているたたきの文様は内側にあります。時代、土器と須恵器の違いはありますが、何か近い印象を受けます。

黙水さんの命日が6月13日ということで、お墓参りを皆さんとしてきました。

千年の月日が流れても、焼き物はその当時の様子を伝えます。黙水さんも調査しながらいろいろなことを想像されたのでしょうね。

 

土と遊んでいただきました!

長い黄金週間中の「寒風陶芸まつり」では、たくさんの皆様に土と遊んでいただきました。
長い人生と黄金週間、遊ばにゃ損!
作り手のかける力や抜き方で、土は如何様にも変化する柔らかい相手です。
思うようにいくような、いかないような面白い素材を楽しんでいただきました。
陶芸まつり期間中は、日替わりで飲食の販売や、お煎茶のお茶席もあり喜んでいただきました。

ご来館いただいた皆様、関係者の皆様、ありがとうございました!