須恵器をつくる

「須恵器制作・焼成プロジェクト」は取り組みを始めて今年度で3回目。作品を制作し焼成してみると、そのたび寒風古窯跡から出てきた須恵器との違いを確認することになります。制作工程、焼成方法などを推測し挑戦するのですが、結果少し違う様子が見えてくるのです。

1400年前の先人が残した教科書は、地面から出てくる破片しかありませんので、そこからどれだけ読み解くことが出来るか、回を重ねながら試みています。
そんな中、古代の都奈良で日々調査、研究を重ねていらっしゃる奈良文化財研究所の皆さんが2018年10月、寒風陶芸会館へお越しくださいました。沢山の遺物を調査してこられた方々の推定した製作方法を実践してみることで昔の陶工がどのような道具を使い、どのような制作方法で形にしていたのか、思い込んで疑わなかった作業をもう一度考えることに。文字の無い教科書を解説していただくことで、ぐぐっ!と昔の陶工の作業イメージが浮かんできます。その様子を ■なぶんけんブログ「フタの裏には何がある?」  ■寄稿「古代備前産須恵器~須恵器づくりが結ぶ古代と現代~」でご紹介くださっています。

2019年1月22日から窯に火が入り須恵器の焼成が始まります。過去2回の焼成結果から得られたことを材料に、作家の皆さんと試みを行ってみようと思います。
三度目の正直となりますか。

寄稿 「古代の備前産須恵器 〜須恵器作りが結ぶ古代と現代〜」

須恵器プロジェクトに取り組み始めてご縁をいただき、今年10月末に奈良文化財研究所の皆さんがご来館下さった様子について、寄稿くださいましたのでご紹介します。(三浦)


古代の備前産須恵器
〜須恵器作りが結ぶ古代と現代〜

独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所 都城発掘調査部 考古第二研究室
主任研究員 神 野  恵

 

古代の須恵器研究者が寒風窯に通う理由

奈良文化財研究所は、奈良の藤原京や平城京をフィールドに、古代の都の発掘調査をおこなっています。私たちは日々、ここから出土した土器を研究しています。こんな私たちが最近、よく寒風窯の須恵器の調査に来させてもらっています。ここで何をしているのだろう?とお思いになっている方もいらっしゃるかもしれません。私たちの活動内容について、お話ししてみようと思います。少し、長くなりますが、ご興味お持ちの方は、最後までお付き合いください。

飛鳥・奈良時代とは、律令制度を国家の骨組みとした中央集権的な時代でした。地方は律令の規定に従い、様々な税金を都に納めなければなりません。窯で焼かれた「須恵器」も「調」という税として都に運ばれました。調納国といって、須恵器を「調」として納めるべきと規定されていたのは、摂津・和泉・近江・美濃・播磨・備前・讃岐・筑前の8カ国。

古代の寒風窯で発掘された須恵器と、よく似たものが藤原京などで出土していますから、ここで焼かれた須恵器のなかには、備前国からの調として都へ運ばれたものもあったでしょう。

古代の「備前焼」は白い器で「美濃焼」と酷似

この古代の須恵器作りが、現代の備前焼のルーツと言えるわけですが、古代の「備前焼」は、現代の備前焼とは全くイメージが違います。古代の須恵器は、白っぽい色で、薄緑色の自然釉がかかるものが多く、現代の赤褐色の備前焼とはずいぶんイメージが違います。

そもそも、古代の須恵器は酸素が少ない状態で焼成しますので、鉄分が還元した青灰色を呈するものが一般的です。しかし、なぜか備前国と美濃国の須恵器には、白っぽいものが多いのです。なんとか備前と美濃の須恵器を見分けたい!私たちが寒風窯で調査を繰り返す大きな理由の一つです。

備前と美濃では距離も離れているため、本当に作り方や器形から区別がつかないのでしょうか?生産地ごとに違う器を作っていたのでは、都に集まる器は、バラバラになってしまいますよね?税として納められるような須恵器は、同じような形、大きさを目指して作られています。おそらく、都から規格についての注文があったのでしょう。規格に沿った器は、特に高い作陶技術を要するものではなく、むしろ大量生産に向いたシンプルなものが多いですから、生産地での技術の差が出にくく、区別が難しいのです。

古代の須恵器製作技術

私たちは日々、都に運ばれた須恵器を観察して、どのように作ったのか、痕跡から研究を重ねてきました。しかし、自分で作る技術力は素人同然です。自分たちが推定した方法で、作陶技術を持った陶匠(すえたくみ)が須恵器を作ったら、出土品と同じような痕跡が残るのでしょうか?

寒風陶芸会館には、現代の備前焼の作家としてご活躍の陶匠さんがたくさんいらっしゃいます。私たちが須恵器のなかでも一番難しいと思っていた蹄脚円面硯を、本物そっくりに作る技術力の高さに驚きました。この作家さん達なら、私たちが見たい方法で須恵器を作ることができるに違いないと直感しました。

古代の須恵器を作ってみせてもらえませんか?

2018年10月、平城京から出土した須恵器を持って、寒風陶芸会館を訪れました。このような器を作ってみせてもらえませんか?末廣さん、三浦さんら、作家さん達が、こころよくチャレンジしてくれることになりました。

日本の古代の須恵器作りは、ほとんどが右回転の手まわし轆轤で作られています。私たちが須恵器杯Hと呼ぶ器は、寒風窯でもたくさん焼かれた器です。

この器を最後にどうやって切り離していたのか?考古学的には議論がありますと言っている横で、末廣さんがヘラを入れて切り離すと、古代の器そっくりの底部が目の前に出現しました。研究者一同が「うわ〜っ」と唸った瞬間です。

須恵器蓋のつまみは、「粘土の塊を押しつぶして広げていくだけで・・」と尾野さんが言い終わる前に、末廣さんは頷きました。蓋のつまみは、現代でも同じ方法で作るのだそうです。

壺瓶は粘土で風船のように膨らませて…

古代にはさまざまな形の壺や瓶が須恵器として作られていました。フラスコ形のように丸いものや、角ばった肩を持つものもあります。このような器は頸の 付け根あたりに粘土を貼り付けたような痕跡をもつものがあります。

この作り方を、奈文研の尾野さんが解説します。「まず、球形の体部を轆轤で引いてもらって、上を粘土板で塞いで風船のようにするんです。それをグッと上から潰すと、壺の体部の形になりますから…」。聞いている作家さんたちは半信半疑でしたが、作家の三浦さんが尾野さんの言う通りに轆轤を引いてくれました。

あとは、半乾燥させて、頸部をつける部分に孔を開け、粘土を足して頸部を引きます。これまで半信半疑だった作家さんたちも興味津々です。末廣さんが頸をつける部分に孔をあけて、粘土を積み足して轆轤で引くと、古代の壺にそっくりの壺ができました。

「こうやって作った壺の中身が見たいですね」私たちは、いつも割れた破片ばかりを目にしていますから、本当に風船技法で作ったと私たちが考えている破片と同じような痕跡を持つのか?せっかく、古代の壺そっくりに作っていただいた壺をカットして頂きました。すると、発掘調査で出土する割れた壺にそっくりの痕跡を確認することができました。

古代の須恵器づくりは、技術だけでなく貴重な研究素材を提供

私たちが研究している古代の須恵器には、食器や貯蔵具だけでなく、調理具も含まれています。私たちの研究チームのメンバーである森川さんは、鉢Fの用途について研究しています。鉢Fは漏斗形のボディに、厚い円形の底部をつけたものです。

この器形の鉢は、こね鉢やすり鉢などのように使われたと考えられており、出土品の中には、使用によって器表面がすり減っているものがあります。森川さんは、実際にどのように使用すると、どのようにすり減るのか?須恵器製の鉢Fでつぶしたり、擂った食品や調味料は、どのような味がするのか?など、製作実験に使える陶製の鉢を探していました。

寒風陶芸会館でボランティアをされている妹尾さんと中村さんが、この研究に協力をしてくれました。事前に出土品の図面をお送りしたところ、出土品と同じような鉢Fを作ってくれていたのです。鉢の底部は分厚いためでしょうか、蓮花状に穴が開けられているものが多いので、最後の穴あけの仕上げを森川さんに残しておいてくれました。この立派な復元鉢Fが、森川さんの古代の調理具研究を進める一助となるのは間違いありません。

古代と現代のコラボレーション

飛鳥・奈良時代の須恵器作りの職人は、おそらく、藤原京や平城京から運ばれたモデルとなる須恵器を見せられ、これと同じようなものを作りなさいと言われたのでしょう。あるいは、都の役人が、いろいろ注文をつけたかもしれません。各地方の須恵器窯の陶工たちは、古墳時代からもっと複雑な須恵器を作っていますから、求められた器を製作するだけの技術力を十分に持っていたのでしょう。

現代の寒風陶芸館の作家さん達は、古代の都から来た私たちが、いろいろ注文をつけたにも関わらず、ほぼ同じような産品を忠実に作ってくれました。つまり、古代の陶工に勝るとも劣らない技術力を持っていらっしゃることは明らかです。私たちが理屈で考えた技法で作ることができるのか?この検証に必要なのは、「勝るとも劣らない技術力」に他なりません。この古代の須恵器作りへのチャレンジが、発掘調査では入手できない貴重なデータを私たちに与えてくれました。

今後も、たくさんの陶芸好きの人、古代史好きの人に、ワクワクしてもらえるようなコラボレーションができれば嬉しいですね。私たちの研究に、今後もご協力のほど、よろしくお願いします!